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zoom RSS 国宝「金錯銘鉄剣」さきたま古墳群 古代の公共事業

<<   作成日時 : 2008/03/06 07:11   >>

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埼玉県にも国宝がいくつかあります。例えば川越の喜多院も国宝ですがいま一つ地味なのは否めません。そんな中で圧倒的な存在感を持つのが行田市の埼玉(さきたま)古墳群にある稲荷山古墳から発掘された国宝「金錯銘鉄剣」です。
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1968年(昭和43年)に発掘されたもののその後10年間は単なる錆びた鉄剣のひとつとして倉庫の片隅にほったらかしにされていました。
1978年(昭和53年)に予算がついたため奈良の橿原考古学研究所にて錆を落とす作業をした際、ピカリと光るものを作業員が見つけ念のためレントゲン撮影をしたところこの金文字が見つかり大騒ぎになりました。
日本最古の漢字とされ日本史で20世紀最大の発見とも言われ今では窒素ガスで満たされたガラスケースに鎮座しています。中空に浮かぶように展示されおよそ1500年の時を経ているこの金文字には強烈なオーラのようなものを感じます。

その文字の解釈をめぐっては激しい論争がありますが私が疑問に思ったのは次の3点です。
1.なぜこんな田舎にこのような巨大な構造物が造られたのか。
2.なぜこんな田舎に貴重な鉄剣が埋葬されたのか。
3.なぜこの鉄剣は盗掘されなかったのか
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行田の人には悪いのですがこの場所は田舎です。
隣の丸山古墳に登ってみると360度視界が開けます。逆にいうとなにもないのです。
5世紀の行田もこんなもんでしょう。秩父で銅が見つかり「和銅」に改元されたのはこの構造物が築かれたおよそ200年後。鉱物資源もなく原野が広がるこの地になのためにこのようなものを築く必要があったのでしょうか?

私はこの構造物は古代の公共事業だったと思います。
当時、この地には大和朝廷に屈伏させられた出雲族や百済崩壊によって亡命してきた朝鮮族の人たちが強制移住させられていました。
征服者の大和朝廷の原則とすれば、自分の食べる分は自ら耕作せよ、だったでしょうがこのような荒野ではすぐには困難です。ほっとけば飢えで大規模な反乱もおきかねません。かと言って安易に援助すれば民はつけあがります。
そこで大和側は食糧援助の代償としてこの構造物建造の使役を出雲族や朝鮮族に命じたのではないかと私は思います。支配者としてはこのような巨大な構造物を建設することにより自らの権力を誇示するとともに被支配者に食糧を提供することができた訳です。
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およそ1500年前にこの地で行われていたことが復活したのは1965年(昭和41年)です。
行田市は北埼玉郡の中に位置します。
北埼玉郡原道村(現在の大利根町)出身の時の埼玉県知事栗原浩さんがこの地を公園化することを決めたのがはじまりです。後を継いだ北埼玉郡礼羽村(現在の加須市)出身の畑和知事もこの事業を引き継ぎ博物館の傍らには畑知事の筆になる「埼玉県名発祥の地」の大きな碑文がたっています。
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ちなみに栗原知事も畑知事も旧制不動岡中学校(現県立不動岡高校)出身です。
写真でみるとこの地は公園化される前は田んぼでした。産業などなんにもなかったのです。
さきたま古墳は現代の支配者の知事にとって出身地に利益を誘導する格好の手段だったと思います。鉄剣の発見はまさに天恵というものです。

この天恵の鉄剣ですが何故盗掘されなかったのでしょう。すぐ隣の竪穴が盗掘にあっているのに極めて不自然です。
私はこの鉄剣はこの稲荷山古墳が築かれた時ではなくかなり後年に埋められたものではないかと思います。更に言うと埋めたのは盗賊ではないかと思うのです。
このような構造物は誰が見てもお宝が埋まっていると考えます。葬儀が終わり埋葬が行われて何年も経つと管理もおろそかになります。その隙をついてに盗掘が行われたのではないいでしょうか。それはこのあたりの住民が誰でも知っていたことでしょう。
ではそのお宝をどこに隠すか。一番安全なのは盗掘が行われた場所に埋めることです。誰もが「あそこのお宝はもう盗まれてしまった」と思っているでしょう。それを知った盗賊の頭はそこにこっそり隠したもののなんらかの事件で殺されてしまった。そうして忘れられたお宝が昭和の御代によみがえったのではないかと思います。

この鉄剣もこの地に埋葬されたものでははなくどこかで盗まれたものだったのでしょう。畿内で盗まれたものが埼玉の地に流れてきたのかもしれません。
そもそも大王の親衛隊長がこんな僻地に埋葬されることなどありえないと思います。6世紀の埼玉なんて畿内の人たちからすると火星に行くのと同じ感覚だったのではないでしょうか。そんな地の果てに赴任を命ぜられたら誇り高い親衛隊長は自死を選ぶと思います。

埼玉県立さいたま史跡の博物館に展示されている金錯銘鉄剣を見ていたらいつのまにか時間が経ってしまいいろいろな思いが浮かんできました。
この博物館はお得です。200円の入場料は安いと思います。

埼玉県立さいたま史跡の博物館の休館日は月曜日です。
詳しくはこちらをご参照ください。
http://www.sakitama-muse.spec.ed.jp/




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さきたま古墳公園
さきたま古墳公園は、8基の前方後円墳と1基の円墳が集中する東日本最大の古墳遺跡である。瓦塚古墳からは多くの埴輪が出土した。埼玉県立さきたま史跡の博物館には、日本最古の漢字が刻まれた「金錯銘鉄剣」などの国宝や重要文化財が多数展示されている。 ...続きを見る
ぱふぅ家のホームページ
2009/04/08 20:35

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コメント(6件)

内 容 ニックネーム/日時
こんにちは、この古墳のある場所は、
五世紀には半島だったそうですよ。
Sari
2008/04/05 16:46
飛鳥、吉備、出雲、岩井の地、平泉、鹿島、皆今は田舎。行田は清洲と同じ、古代穀倉地帯と思います。
 化学肥料や灌がいで日本中どこでも百が出来る現在とは違います。土地が肥えていることで王国が成立可能。
ハットリクン
2008/07/11 20:10
いま、薮田絃一郎著「ヤマト王権の誕生」が密かなブームになっていますが、
それによると大和にヤマト王権が出来た当初は鉄器をもった出雲族により興
されたとの説になっています。
 そうすると、がぜんあの有名な出雲の青銅器時代がおわり四隅突出墳丘墓
が作られ鉄器の製造が行われたあたりに感心が行きます。当時は、西谷と安来-妻木晩田
の2大勢力が形成され、そのどちらかがヤマト王権となったと考えられるの
ですがどちらなんだろうと思ったりもします。
山陰考古学ファン
2008/10/20 04:16
こんにちわ^。^質問なんですが、鉄剣には、何て書いてあるのでしょうか・・・。誰でもいいので教えて下さい。  
バンビ
2009/06/22 11:53
>畿内で盗まれたものが埼玉の地に流れてきた
>のかもしれません。そもそも大王の親衛隊長が
>こんな僻地に埋葬されることなどありえないと
>思います。6世紀の埼玉なんて畿内の人たちから
>すると火星に行くのと同じ感覚だったのではない
>でしょうか。そんな地の果てに赴任を命ぜられた
>ら誇り高い親衛隊長は自死を選ぶと思います。


これはあまりにも無謀な解釈ですね。日本書紀に
よれば5世紀の宣化天皇の時代には、当地に国造が
派遣され収めていたんですよ。その国造の末裔が
この古墳の主ではないでしょうか?
あい
2009/08/17 17:21
勝手な解釈はよくないですよ。あまりにも突飛過ぎます。これを信じる人が出てきたら困るので削除してくださいね。
勝手すぎ
2012/08/04 07:39

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